本サイトではアフィリエイト広告を利用しています
私は現在33歳の男です。
自分で言うのも何ですが、私は怠惰な人間でした。
今の仕事が決まるまでの私は、何かを継続出来た試しがなく、何かを最後まで成し遂げたこともありませんでした。
18歳で工業高校卒業後、ニート生活に突入
私は中学卒業後、地元の工業高校に進学しました。
毎年、募集人数に対して進学希望者の数が定員割れしていて、自分の名前さえきちんと書ければ合格するという、そんな学校です。
もともと勉強が嫌いだった私に、せめて高校だけは行ってくれと親がなかば強引に決めた進路でした。
しかし高校生活はそれなりに楽しいものでした。
友人にも恵まれ、充実した高校生活を送れました。
ただ高校三年時、周りが就職活動に精を出していた時も、私はキリギリスのように遊んで過ごしていました。
結局、高校卒業後の私は、就職するわけでもなく何をするでもなく、自宅でひたすら自堕落な生活を送っていたのです。
ただお金は欲しかったので、近隣のコンビニエンスストアの深夜アルバイトをすることにしました。
そこには高校時代の友人も居たので、何かと気安いものがありました。
しかし、アルバイト当日、肥満体型の私が着られる制服がなかったのです。
そのことが要因で店長といざこざがあり、結局そのまま仕事を辞めてしまいました。
今振り返ると、あの時堪えて辛抱していれば、その後の何年かを無為に浪費することもなかったかもしれないなあ、と思う時があります。
アルバイトを辞めてからの私は、ひたすら自宅でゴロゴロしていました。
無職の私は恥ずかしながら、同居していたおばあちゃんから年金が支給されるたびに、お小遣いをもらっていました。
そのお金で友人と遊んだり、パチンコをしたり、テレビゲームをして過ごしていました。
母親が口うるさく仕事しろと言ってきていたのですが、おばあちゃんがいつも庇ってくれました。
25歳、暗黒のニート生活、初めての身近な死
20歳も過ぎ、25歳になる頃には段々と一緒に遊ぶ友人が居なくなって行きました。
結婚したり、仕事が軌道に乗り始めたりと皆それぞれの理由で忙しくなっていきました。
いつまでも変わらず暇なのは私だけでした。
寂しさと焦り、常にある虚無感から、私はそれまで以上に暴飲暴食をするようになって行きました。
体重はみるみる増え、徐々に外出するのも億劫に。
そして30歳を前にする頃には、近所のコンビニエンスストアに行く以外、外出することがなくなっていました。
親も諦め始めているようでした。
その頃には口うるさく何かを言うことなくなっていました。
私が30歳になった春、あのいつも私の味方をしてくれていたおばあちゃんが亡くなりました。
高齢ではあったのですが、私は大変なショックを受けました。
それは私にとって、初めて経験する身近な人間の死でした。
このままではいけないかもしれない、そんなことを考え始めていました。
突然の高校時代の友人からの連絡
ちょうどその頃、地元の市役所内にハローワークが新設されました。
これも何かのタイミングだと思った私は、何度かハローワークを訪れるように。
しかし長年ニート生活を送っていた私が出来そうな仕事は見つかりません。
少なくとも自分自身はそう思っていました。
あの時のアルバイトを思い出すと、自分に仕事が務まる自信がなかったのです。
ネットや新聞に折り込まれる求人広告にも目を通しました。
しかしそれも答えは一緒。
務まる自信がないのです。
諦めかけていました。というよりもはや諦めていました。
そんな時、久しぶりに高校時代の友人から連絡がありました。
なんでも、彼が勤めている警備会社が事業拡大の一環として、BARをオープンさせるというのです。
そこで「店長兼バーテンダー」を募集するという話でした。
風の噂で、私が就活していることを耳にした友人はそんなちょっと面白そうな話を持ってきてくれたのです。
このときは嬉しかったですね。
32歳にして初めての就職はBARのマスター
結局、その友人の口添えもあり、私は晴れてBARのマスター兼バーテンダーとして就職することになりました。
最初は右も左もわからない状態でしたが、友人・知人、そしてお客様に教わりながら、どうにかこうにかやってこれています。
給料は決して良くはありません。
しかし、社長の「ニート生活のリハビリだと思って、頑張れよ!」という言葉を胸に日々精進しています。
私の場合、職歴なしからの就活においては本当に友人に助けられました。
持つべきものは良き友人だなと思います。
感謝しています。
また家族の支えもありがたいものでした。
優しかったおばあちゃん、見守ってくれた母親、どちらも私にとって大切な存在です。
みんなに感謝ですね。
私の体験談が皆さんの就職活動の励みになればと思います。
コメント